「一生役に立つ」戦略的な思考力を養う日本史の実践道場

上智大(TEAP利用日程)の「傾向と対策」

上智大学の「傾向と対策」(TEAP利用日程 2月3日)

☆上智大学では、2025年度入試から(「日本史探究」+「歴史総合」)型の試験方式となります。日本史だけでなく「近代分野の世界史」の知識が問われるため、従来よりも効率的な対策が必要となります。吉田塾では、「日本史探究」をベースに効率的に「歴史総合」分野をカバーする対策法を受験生に伝授しています。

TEAP利用日程の日本史は、論述問題が出題されるが、その出題形式・設問が他大ではなかなか見られない独特な設問(問いかけ)となっているため、一般の受験生にとっては非常に対策が立てづらいものとなっている。しかし、近年はその独特の出題形式なりに「定型化」が見えては来ている。これが見えてくると効率的な対策が可能だ。問題作成者が書いた例題文(テーマ)をベースとしつつ、そこに様々な資料(史料文・図版・グラフなど)が盛り込まれている。各設問も、該当する下線部だけ読んでいても正答が得られないように工夫された問題が多いので、全体としてはかなりの長文をちゃんと読み込まなければならない。上智の論述問題は、日本史(教科書レベル)の基礎知識や理解を前提として、これらの資料を読み込んだ上で解答文を作成することが肝要となる。

 

それでは、「百聞は一見に如かず」である。

2023年2月の問題を以下に掲載したので実際に解いて「上智のTEAP利用」の日本史を体感してみよう!

2023年2月 TEAP利用日程
次の問題文をよく読んで,関連する以下の問いに答えなさい。
[問題文]
2022(令和4)224日,ロシアによるウクライナ侵攻が現実のものとなり,人びとの平和な日常が瞬く間に破壊された。子どもや老人,病者や障がい者の区別なく,あらゆる生命が虐殺の対象となり,遺体は路上に放置され,あるいは単なるモノとして無造作に処理された。経済や社会への影響も計り知れず,エネルギー問題の逼迫(ひっぱく)は物価の高騰を招き,国際関係は(a)冷戦期のような二項対立構造へ引き戻されつつある。しかし,悲惨な現実が連日報道される列島社会では,すでに(b)集合的な忘却が始まっているかにみえる。それはいったい,なぜなのだろうか。

紛争や戦争が勃発して広汎な地域が混乱状態に陥ると,それらに生活していた人びとが危険を避け,安全な隣国等へ移動する難民が発生する。ウクライナに関しては,成人男性が防衛の義務を負って国内に残留したため,主に子どもや女性が難民となったが,立場の弱い彼らを狙い人身売買や性暴力が横行したとの報道もあった。日本も難民の受け入れを決定したが,しかしこれは人道的見地からではなく,一種の政治的判断だったのではないだろうか。長年,日本は,難民の受け入れに消極的だったからである。記憶に新しいのは2010年代以降,ミャンマー国軍・警察等の弾圧を受け脱出した( ア )難民受け入れの低調ぶりだが,百歩譲って東南アジアの複雑な宗教的対立が判断を鈍らせているのだとしても,同時期から問題視され始めた担当機関( イ )の非人道的姿勢は,厳しく問われなければなるまい。COVID19が猛威を振るっていた2021(令和3)年にも,閉鎖性・排他性を強める( イ )へ支援団体等の批判が集中していた矢先,名古屋の関係施設に収容中だったスリランカ国籍の女性,ラスナヤケ・リヤナゲ・ウィシュマ・サンダマリさんが死亡した。原因が職員の不適切な対応にあった可能性は高く,現在,遺族による国家賠償請求訴訟が係争中だが,国は頑なに死亡時の情報公開を拒んでいる。

このような事態は,一般にいわれるように,<島国根性>によるものなのだろうか。しかし歴史を遡ってみると,移民や難民の発生/受け容れに揺れた,あまり知られぬ列島の姿が浮かび上がってくる。

まず『( ウ )』には,612(推古天皇20)年,百済から渡来した路子工という人物をめぐる興味深い記事がある。彼の身体は「斑白(まだら)」であったため,「白癩(しらはた)」を疑われて海中の島へ捨てられようとしたが,庭園を造る知識・技術が認められ活用されたという。確かに,四方を囲む海から訪れる者への不安感,恐怖感を垣間見ることができる。事実,737(天平9)年の天然痘大流行が遣新羅使の帰還を契機としたこともあり,(c)悪病は新羅からもたらされるとの意識が生じ,中世の説話集『古事談』には,「もがさと(いふ)病は,新羅国よりおこりたり」との記載がある。『明月記』天福元(1233)年2月17日条では,「近日咳病,世俗に夷病(えびすやまい)と称す,去ぬる(ころ)夷狄入京し,万人翫見(がんけん)すと云々。是れ又極めて不吉の(しるし)なり」と,流行中の感染症の原因を,王朝の周縁から訪れた蝦夷に帰している。しかし一方で,古代東アジアにおける辺境の倭国が日本という律令国家へと展開しえたのは,中国や朝鮮半島から多くの渡来人が訪れ,これを受け容れた結果だろう。

現在,国立歴史民俗博物館の研究成果により,弥生時代の年代観が大幅に遡りつつある。これによれば,同時代の開始期は前10世紀初で,朝鮮半島の青銅器時代前期に当たるという。この時期,半島南部には農耕社会が成立し,広大な畑を持つ環濠集落,青銅器を副葬する首長墓が出現していた。地域共同体の再編成が進み,社会の各方面へ圧力が強まり,そこから弾き出されるようにして新たな土地を求めた人びとが,列島に辿り着いたものと推測される。彼らのもたらした知識や技術,集団の結びつき方によって,九州北部でも半島と同様の社会的変化が起き,武器型青銅器を私有する首長を生む( エ )が進んでゆくのである。

このような渡来の波は,以降も断続的に訪れるが,列島の古代においては,45世紀,あるいは56世紀がひとつの画期だろう。『論語』や『千字文』をもたらした王仁,120県の民とともに養蚕や機織を伝えたという弓月君,文筆に優れ党類17県を率いて来帰した阿知使主など,のちに古代国家の行政機構を支える渡来系氏族の,始祖とされる人びとの伝承が遺されている。この頃,中国では,胡族王朝が乱立し漢人王朝を南へと圧迫した五胡十六国,魏晋南北朝の時代にあった。戦乱を逃れようとする人びとのうちには,統率力のあるリーダーの指導下に村落がまるごと移動する事例もあった。また各王朝も,支配民の叛乱を防ぐ等の目的で,一定のまとまりをもった人びとを本貫から移動させる徙(し)民(みん)政策を採った。社会の流動化は一層進み,やはり中華世界から周縁部へと追いやられる難民も少なくなかったと考えられる。北朝鮮で発掘された4世紀半~5世紀の壁画古墳,安岳3号墳や徳興里古墳は,かかる混乱のなかで( オ )へ亡命してきた中国人の墓という。『宋書』倭国伝には,倭王讃の派遣した司馬の曹達が文帝に上表,方物を献上したことがみえるが,(d)列島による東アジア外交の基礎を築いた彼ら渡来人にも,同様の出自の者が少なくなかったのかもしれない。なお7世紀後半,中央集権化を進める倭国は,唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済の遺民たちを受け容れ,唐の襲撃に備えて大宰府や瀬戸内の防備を固めた。そうして702(大宝2)年,33年ぶりに派遣された遣唐使は,百済という国家の正当性を吸収したかのように,新たに「日本」という国号を宣言するに至るのである。707(慶雲4)年に帰国した際,彼らは唐の捕虜となっていた讃岐国那賀郡の錦部刀良らを随伴しており,( カ )によって生じた亀裂を修復する役割も帯びていたのかもしれない。

中世以降になると,遣唐使停止ののちも活発に行われた交易によって,環東シナ海各地に異国人どうしが雑居する空間,和人町や唐人町が作られた。一時的にでも異国に住むということは,災害のほか政治的な異変によっても,難民になる危険が高いということを意味する。894(寛平6)年,唐国内の政治的混乱から遣唐使派遣の危険性を訴えた菅原道真の奏上は,唐の商人王訥に託された留学中の僧中灌の書状に基づくものであったが,彼自身は果たして無事だったのだろうか。日本における南北朝の動乱期,九州探題今川貞世らと九州の支配権を争っていた南朝征西将軍府の( キ )は,明に遣使して「日本国王」の冊封を得ることに成功するが,冊封使を迎える前に今川方に博多を奪われ,熊本へ後退してしまう。1381(洪武14)年,( キ )は,勢力の挽回を図って明の左丞相胡惟庸の謀反に荷担したらしく,与党の誘いに応えて(e)配下や僧侶を大陸へと送ったが,使者たちは謀反の発覚によって現地で捕縛され,雲南の大理へと流されてしまう。この事件の解釈には諸説があるが,1436(正統元)年編纂の詩文集『滄海遺珠』には,派遣された日本僧の美文が収められており,彼らの学識が現地で高く評価されたことが分かる。ただし,うち4人の僧の墓塔が大理に現存しているとおり,彼らが日本へ帰国することはなかった。

戦国時代には,南蛮貿易の展開のなかで,日本人が海外へ奴隷として売却されることもあった。内戦時の慣習「乱取り」で確保された戦争捕虜,詐欺や誘拐に遇った子どもや女性が,(f)東南アジアの鉛や中国の硝石の対価として,南米やヨーロッパへも流出していったのである。彼らが奴隷化される際にはキリスト教の洗礼を受ける必要があり,イエズス会が一連の過程に関与したのは間違いない。1587(天正15)618日に発令された「覚」〔神宮文庫蔵『御朱印師職古格』〕には,「大唐南蛮高麗へ日本仁(〔人〕)を売り遣し候事曲事たるべし,付ては日本ニをいてハ人之売買停止之事」とあり,豊臣秀吉が,かかるイエズス会の動きを注視していたと分かる。なお,11ヶ条からなるこの「覚」は,翌日発令の5ヶ条からなる( ク )と,一括して呼称されることも多い。

近代になると,日本の帝国主義的拡大によって,国策としての移民が始まる。日本の近代移民の濫觴(らんしょう)は1868(明治元)年,ハワイ総領事ヴァン・リードの要請に応じた153人の農業労働者移民にあったが,人口増加や耕地不足の解消策として,20年ほどの間に官約移民へ大規模化した。(g)移民先はハワイ,カナダ,北米から中南米,南洋諸島などへも及ぶが,やはり特筆すべきは1932(昭和7)~1945(昭和20)年の間に約27万人を送り出した,( ケ )であろう。移民者は当初退役軍人が中心だったが,やがて農村恐慌の影響を受け,農業従事者が多くなってゆく。彼らは新天地開拓のスローガンに希望を託して出発するが,庶民の生活より北辺防備・植民地経営に重きを置いた計画は無謀かつ性急で,次第に脱落者を生んだ。そうして帝国日本が崩壊すると,移民団22万人のうち現地死亡者46,000人,行方不明者36,000人,ソ連抑留者34,000人という悲惨な結果に至る。移民者は難民と化して帰国の機会を待ったが,帝国日本の植民地抑圧はその反動を生じ,引揚までの過程で略奪や性暴力の犠牲になる者も少なくなかった。岐阜県黒川村の開拓団では,現地住民の襲撃から自分たちを守ってもらおうと,未婚の女性たちに進駐してきたソ連兵へ性的接待をさせたという。また,命からがら釜山へ辿り着き,引揚船に乗り込みながらも,望まぬ妊娠や性病感染のために,絶望して自殺を選択する女性もあった。京城帝国大学で教鞭を執っていた文化人類学者の泉靖一は,この惨状をみて,移動医療局や在外同胞援護会救療部などを起ち上げ被害者の実態把握と治療に当たり,1946(昭和21)年には二日市保養所を設けて中絶手術実施に踏み切った。(h)1869(明治2)年以来,堕胎は法律で禁止されており,1907(明治40)年成立の現刑法第29章では,犯罪として明確に規定されていた。しかし手術の求めは少なくなく,その実施件数は,閉所までの1年半ほどの間に,400~500件にものぼったという。(i)( ケ )は多く<棄民>に過ぎず,現代に至るまで多くの人びとに苦しみをもたらしているのである

以上,日本の歴史のなかに,戦争と難民,移民に関わる事例を探ってきた。現代日本が移民や難民に冷淡なのは,自分たちが同種の経験に乏しいからだという論調があるが,上記のとおりそれは正確とはいえない。注意すべきは,列島社会が移民,難民に関する記憶を忘却したかのように振る舞っていることであり,(j)その根底には,歴史観や歴史認識の問題が,拭いがたく横たわっているように考えられるのである

〔参考文献〕 向山寛夫「明初の訪中日本人僧侶たちの雲南への流謫」(『國學院雑誌』10142000),ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷(増補新版)(中央公論新社,2021年,初刊2017),下川正晴『忘却の引揚げ史-泉靖一と二日市保養所-』(弦書房,2017)

 

1 下線部(a)について。2021年の時点で,日本はこの二項対立構造にどのような形で関わっているか。最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 北大西洋条約機構に加盟している。
② 北大西洋条約機構と対立する軍事同盟に参加している。
③ 北大西洋条約機構の,グローバル・パートナーとして協力関係にある。
④ 二項対立の構図にまったく関与しない,中立の状態を貫いている。
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2 空欄( ア )に当てはまる語句は何か。ラ行で始まるカタカナ5文字で書きなさい。
正解を表示するロヒンギャ
 
3 空欄( イ )に当てはまる語句は何か。最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 外務省
② 国連難民高等弁務官事務所
③ 出入国在留管理庁(入国管理局)
④ 警察庁警備局
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4 空欄( ウ )に当てはまる語句は何か。最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 古事記
② 日本書紀
③ 風土記
④ 万葉集
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5 下線部(c)について。このような新羅に対する悪印象は,なぜ醸成されたと考えられるか。その説明として最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 新羅が,56世紀以来,実際に幾度か干戈を交えたり,具体的な征討計画が立てられたりするなど,概ね仮想敵国であり続けたため。
② 新羅が,日本が模倣し続けた唐において,取るに足らない存在として位置づけられてきたため。
③ 新羅出身の渡来人が存在せず,同国に対する親近感が皆無であったため。
④ 恵美押勝により新羅征討計画が立案され,その準備が進められている段階で天然痘の流行が生じたため。
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6 空欄( エ )に当てはまる語句は何か。最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 階層化
② 孤立化
③ 鎮静化
④ 平準化
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7 空欄( オ )に当てはまる語句は何か。最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 伽耶
② 百済
③ 高句麗
④ 新羅
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8 下線部(d)について。曹達のような渡来人が,倭国の外交上重視されたのはどのような理由からか。次のうちから誤っているものを1つ選び,記号で答えなさい。
① 中華王朝の主宰する外交秩序において,それに準拠した文書形式(皇帝への上表文など)に熟達していたため。
② 中華王朝の主宰する外交秩序において,それに準拠した儀礼形式(皇帝への謁見など)に熟達していたため。
③ 中華王朝の主宰する外交秩序において,基盤となる中国の文字・言語に熟達していたため。
④ 中華王朝の主宰する外交秩序において,倭国王の権力を分有しうる存在として位置づけられていたため。
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9 空欄( カ )に当てはまる語句は何か。最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 乙巳の変
② 遣新羅使の派遣
③ 壬申の乱
④ 白村江の戦い
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10 空欄( キ )に当てはまる人物の説明として,最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 後醍醐天皇を父に持ち,菊池氏の支援を受け,1361年には大宰府を占拠した。
② 父後醍醐天皇の討幕計画を助けるため天台座主から還俗,建武政権の征夷大将軍となった。
③ 後村上天皇を父に持ち,足利義満の斡旋を受け容れて,南北朝の合体を実現した。
④ 1403年,明の皇帝に当てた国書に「日本国王臣源」と署名し,臣従の態度を示した。
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11 下線部(e)について。中世の日明交渉においては,僧(とくに禅僧)が留学以外に重要な役割を果たしたが,それは何であったか。最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 外交使節
② 航海士
③ 書記官
④ 武官
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12 下線部(f)について。当時の日本において,鉛や硝石の需要がなぜ大きかったのだろうか。50字程度で説明しなさい。
正解を表示する添削します。
 
13 空欄( ク )に当てはまる語句は何か。最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 刀狩令
② 海賊取締令
③ バテレン追放令
④ 人掃令
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14 下線部(g)について。日本人の移民先が北米から南米等へ移行した背景には,いかなる事情があったか。その説明として最も適切なものを,次のうちから1つ選び,記号で答えなさい。
① 日本人移民の低賃金労働がアメリカ人の雇用を妨げるとして排斥運動が高まり,1924年に排日移民法が制定,日本人移民の入国が禁止されたため。
② 満蒙開拓が本格化し,国策移民の主体が北辺の植民地経営へ転換したため。
③ 1939年,日米通商航海条約の破棄通告により,北米への移民が凍結され,国策の方向が変化したため。
④ 1941年,太平洋戦争の開戦によってアメリカが敵国となり,北米への移民が実質的に不可能となったため。
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15 下線部(h)について。1941年に閣議決定された「人口政策確立要綱」では,明治制定の刑法に基づきつつ,戦時下の避妊や堕胎が厳しく禁止された。それは,性暴力に遇って妊娠した女性たちが,自殺を選択する遠因にもなったと考えられる。なぜ戦時下での避妊や堕胎が禁止されたのか,富国強兵の観点から100字程度で説明しなさい。
正解を表示する添削します。
 
16 下線部(i)について。次の史料ABは,空欄( ケ )のうち,中国人の養子になるなどとして現地に留まり,中国・日本の国交回復後に帰国しえた人びとの口述筆記である。よく読んで参考にし,()彼らが中国に残らざるをえなかった理由と,()帰国後に直面している問題について,各80字程度で説明しなさい。
 
[史料A] Iさん(1932年長野県生,1939年満州へ渡り,1980年永住帰国)

……加信鎮におったとき,それで仕方がないもんで。一人の日本の人が来て,妹を預けた家の人と,どうやって知り合ったか知らないけども。「この人のうちは子どもがいないし,家族がいい人だからね,優しい人たちだから。あの,小さい子をやれなぁ」ってね。「そうしなきゃ,もしかしたら,死んでしまうよ」ってね。「死んでしまうよ,人にさらわれるかわからない」ってね。それで,中国の人は子どもが少ないんだよね。だから,日本の子どもをほしくてね。あの,みなはこう回って,見ている。女のきれいな人がおるんだよね。めちゃほしがるんだよね。そういう人に連れられたら困るってね。……それで,私に決めたんだよね。ほいで,私に決めて,私も思ったけど。何で私かなぁと思ったけどもね。それでも,「そうだなぁ,私は長女だしなぁ,そのくらい,責任があるなぁ」と思ってね,……

 

[史料B] Bさん(1945年浜江省生,1994年永住帰国)

……1994年に姉一家と私の一家は帰国しました。帰ってきた当初,姉たちと一緒に従兄の家に3週間くらいお世話になりました。その後市から公営住宅を割り当てられました。3ヶ月の生活保護を受け,職業安定所の斡旋で仕事を見つけたあと,生活保護が途絶えることになりました。……私たちの勤めている会社はある意味で日本社会の縮図です。この会社は日本の社会の本質を映し出しています。新人の場合,日本人の時給は780円だが,中国人の時給は750円です。わずか30円ですが,わずかの数字の裏側には大きな意味が隠されていると思います。……

 

〇加信鎮……現黒竜江省ハルビン市の地名。
〇浜江省……かつて満州国に存在した省。

 

〔出典:趙彦民『「満洲移民」の歴史と記憶』明石書店,2016年,303304339340頁〕
添削します。
添削します。
 

17 下線部(b) (j)について。「集合的忘却」とは社会学の用語で,社会のうちから特定の出来事を想起する契機が失われることをいう。問題文の著者は,列島社会では,移民や難民に関する記憶が「集合的忘却」の対象になっており,それは「歴史観や歴史認識の問題」だという。もしそうなら,列島社会の移民や難民への冷淡さは,いかなる歴史認識の所産と考えられるか。以下のキーワードを参考にして(文中に使用する必要はない)150字程度で論じなさい。
[キーワード]
近代,家族主義,単一民族,包摂/排除
正解を表示する添削します。

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」だ。

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河合塾共通テスト模試は8月が34点⇒プレテストでは77点、そして、日本史が苦手な受験生にとっては、とても難しい早稲田大学の日本史でも文学部において76%(自己採点)と凄い成長を見せてくれました。

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扱う時代は、近現代を中心とした。その理由は、彼の高校の進度では11月や12月にならないと昭和をやらない。しかし、早稲田の法学部は近現代分野からの出題量が多く、この時代の大問は一般的な受験生にとっては手ごわい「早稲田特有の未見史料問題」が頻出する。吉田塾で近現代分野を夏期期間に履修しておけば、11月初めから本格的に始めなければならない早稲田対策の実戦演習にスムーズに入ることが可能となる。このメリット(有効性)を強く意識した夏期講習プランと言えます。

早稲田大学商学部合格をめざすD君の場合
彼は、とにかく早稲田の商学部が断然の第一志望であることがカウンセリングで分かったので「早大商学部の日本史」において最も高い点数をたたき出すことができるようなカリキュラムを一緒に作成して行きました。
早大商学部では、近現代史の中でもとりわけ経済史に強くないとハイスコアを得ることができない大問が頻出します。そのため、短文論述問題対策(詳しい添削指導付き)も含めた「近現代の経済史」中心の夏期講習(全7回)を行いました。この効果もあってか、本番の早大商学部の論述問題(80字)では、完璧な解答文を書くことが出来た!と嬉しい報告がありました。

慶応義塾大学文学部合格をめざすEさんの場合
大問4と大問5で出題される本格的な未見史料問題(史料の読み取り)にもとづく論述問題(100字)がとても自分で対策できる自信がなく途方に暮れていたところ、ネットで検索していたら吉田塾を見つけカウンセリングとお試し講座(史料対策と「論述のお作法」)を受けてくれました。
自分の弱点補強にピッタリ合った講座をいっしょに構築していく吉田塾のスタイルを彼女はとても気に入ってくれたので、「慶応の文学部」の傾向や出題形式の則した①史料の読み取り講座(全2回)と②論述の書き方講座(3回)を設定し夏期集中講座を行いました。これにより、秋以降の志望大学対策の指針が立って安心感が得られたとの感想をもらっています。

慶応大学経済学部が第一志望のF君の場合
論述問題がない私大型の入試問題にはある程度対応できる彼でしたが、カウンセリング(無料)やお試し講座(無料添削)において論述問題が全く解けない(書けない)ばかりか、設問に関係する教科書を読んでから解答文を書いてもらっても大幅に減点される解答文しか書けないことが判明しました。
「今の自分を知ったのです」
よって、「基礎からはじめる論述問題のお作法講座」(慶応大学経済学部の日本史)を受講することになりました。この講座によって論述問題に対応できる教科書の読み込み方法を体得した彼は、秋以降急速に日本史の得点能力を上げて行くことに成功しました。

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