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1 南山の日本史(マーク式問題)の「傾向と対策」(問題分析)

2023年2月12日
(以下の設問(1)~(28)は,解答を一つ選び,A解答紙に記入すること)
※ここでは設問(13)までとします。
(一) 次の文を読み,下記の設問(1)~(7)に答えなさい。
60歳を超えて即位した A 天皇は,在位11年の間に官制の整備や財政の緊縮を進めたが,成果の乏しいまま,その改革は息子の桓武天皇へと受け継がれた。桓武は,律令制度再建を目指す改革政策を採るa一方,新都を造営し,新たな王朝の基盤を固めようとした。しかし,造都は民衆に大きな負担を強いるものであり,中断せざるを得なくなった。その後,嵯峨天皇も政治改革を進め,統治機構の再整備を推し進めたb

官僚制の充実は,指導力ある天皇の存在を不要とするようになり,9歳で即位した B 天皇のような幼帝も現れた。この幼帝の後見役を外祖父の C がつとめ,こうして,天皇の外戚として権力を掌握する摂関政治が始まった。また,その頃から中央政府は政務を儀礼化し,地方政治への関心を次第に失っていった。そのため,任国で統治に当たる国司は,「国例」と呼ばれる慣例を形成していき,10世紀初めまでに,それは中央政府に公認されるようになっていった。いわゆる負名体制cの成立である。

この間,醍醐天皇は,班田の励行,新規の勅旨田開発の禁止,院宮王臣家による山野占有の停止などを命じ,律令体制の復興を目指した。醍醐は,914年には,官人に対して国政上の意見を求めた。これに応じて D は,自分が備中国司として苦労した体験に基づき,地方行政のあり方を論じた「 E 」を提出した。しかし,このような努力もむなしく,もはや戸籍を基盤として課税する律令体制dの維持は不可能であった。醍醐朝でおこなわれたいくつかの事業は,律令国家最後の残照であったe

〔設 問〕

(1) 空欄 A ・ B ・ C に入る語の組合わせとして正しいものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐      A-光 孝              B-清 和              C-藤原良房
㋑      A-光 孝              B-文 徳              C-藤原基経
㋒      A-光 仁              B-清 和              C-藤原良房
㋓      A-光 仁              B-文 徳              C-藤原基経
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(2) 下線部aについて述べた文として正しいものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐ 中央官庁の長官職の交替を円滑に進めるため,後任者が前任者に与える証明書を審査する,勘解由使を設置した。
㋑ 諸国の兵士を東北・九州などを除いて廃止し,国府などを守衛するために郡司の子弟から健児を採用した。
㋒ 班田収授の実行が次第に困難になってきたため,班田の実施を6年に1回として,その間隔を空けた。
㋓ 財政危機により官庁の経費確保が困難となったため,各官庁に対し勅旨田を設け,そこからの収入で各官庁の支出をまかなわせるようにした。
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(3) 下線部bに関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合わせとして正しいものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
X 藤原冬嗣らが長官に任命された蔵人所は,天皇の親衛隊となって,それまでの近衛府・衛門府の役割を吸収していった。
Y 検非違使は,平安京の警察機能を担い,次第にそれまでの京職に代わって京の治安維持をおこなう機関となった。
㋐      X-正           Y-正
㋑      X-正           Y-誤
㋒      X-誤           Y-正
㋓      X-誤           Y-誤
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(4) 下線部cについて述べた文として誤っているものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐ 土地を課税対象として,税を徴収する体制であった。
㋑ 課税の対象は,「名」という単位に編成された。
㋒ 国司は,有力な農業経営者に田地の耕作を請け負わせ,「負名」とした。
㋓ 税として,庸・調・雑徭に由来する官物と,租・公出挙に由来する臨時雑役が課せられた。
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(5) 空欄 D および E に入る語の組合わせとして正しいものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐      D-大江匡房          E-意見封事十二箇条
㋑      D-大江匡房          E-封事三箇条
㋒      D-三善清行          E-意見封事十二箇条
㋓      D-三善清行          E-封事三箇条
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(6) 下線部dについて述べた文として誤っているものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐ 飛鳥浄御原令に基づいて作成された戸籍は,庚寅年籍である。
㋑ 戸籍のほか,課役を徴収するために計帳が作成された。
㋒ 902年の阿波国の戸籍には,男性約350人に対して女性が約50人というように,男性が大半を占めるものもあった。
㋓ 戸籍に登録された地を離れて他国に浮浪する農民は,処罰の対象となった。
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(7) 下線部eについて述べた文として正しいものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐ 六国史最後の史書である『日本文徳天皇実録』が編纂された。
㋑ 三代格式の最後となる「貞観格」「貞観式」が編纂された。
㋒ 皇朝十二銭の最後となる乾元大宝が鋳造された。
㋓ 記録に残る最後の班田が実施された。
 

(二) 次の文を読み,下記の設問(8)~(14)に答えなさい。
鎌倉幕府が成立した12世紀後半,中国大陸での日本の主な通交相手は南宋であったa。13世紀になると,中国ではモンゴル諸部族によって大帝国が建設されていった。モンゴル帝国の東部を領有するようになった A は,日本に国書を送り国交を求めた。当時の朝廷は返書を送ろうとしたが,幕府で執権となった B が反対したため,取り止めとなった。

その後も A は国書と使者を何度も日本に送ったが,幕府はこれを黙殺した。そのため,1274年に元は服属させた高麗の軍勢とともに,対馬を経由して九州に侵攻したb。1281年にも,元・高麗の連合軍は再び九州に侵攻したcこれらの過程で,幕府は九州地方での警備を強化していったd

元寇を契機として,幕府は西国一帯に勢力を強め,北条氏の地位もさらに強化されていった。1285年に有力御家人である C が起こした反乱には,北条氏の専制に不満をもつ多くの御家人が加わったが,反乱は失敗に終わった。このように,元寇後の幕政や御家人のあり方は大きく変わっていったe
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〔設 問〕

(8) 下線部aについて述べた文として誤っているものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐ 南宋は,当時の日本が正式な国交を開いていた唯一の国であった。
㋑ 平氏政権時に引き続いて鎌倉幕府の時も,南宋との貿易が盛んにおこなわれていた。
㋒ 南宋から宋銭が大量に輸入され,貨幣が日本国内での商取引に用いられるようになった。
㋓ 南宋を経由して,東南アジア原産の香料や薬品が輸入された。
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(9) 空欄 A および B に入る語の組合わせとして正しいものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐      A-チンギス=ハン          B-北条時宗
㋑      A-チンギス=ハン          B-北条時頼
㋒      A-フビライ=ハン          B-北条時宗
㋓      A-フビライ=ハン          B-北条時頼
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(10) 下線部bに関して,対馬を経由したのち図①中のどの地点を順に経由して侵攻したか,正しいものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。

 

㋐ あ→う→い        ㋑ あ→え→う        ㋒ え→う→い        ㋓ え→い→う
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(11) 下線部cに関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合わせとして正しいものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
X 元・高麗の連合軍は,大宰府近くまで攻め込んだが,御家人の奮闘により海岸まで押し戻された。
Y 高麗が元に服属した後も抵抗を続けていたことは,元の日本征服の妨げとなった。
㋐      X-正           Y-正
㋑      X-正           Y-誤
㋒      X-誤           Y-正
㋓      X-誤           Y-誤
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(12) 下線部dに関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,年代の古い順に配列したものとして正しいものを,下記の㋐~㋔から選びなさい。
Ⅰ 博多湾岸を警備させる異国警固番役を新設した。
Ⅱ 鎮西探題を新設して,九州地方の御家人の軍事的指揮権を与えた。
Ⅲ 弘安の役の直後,幕府は,非御家人をも動員する権利を朝廷から得た。
㋐ Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ                   ㋑ Ⅰ-Ⅲ-Ⅱ                   ㋒ Ⅱ-Ⅰ-Ⅲ
㋓ Ⅱ-Ⅲ-Ⅰ                   ㋔ Ⅲ-Ⅰ-Ⅱ
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(13) 空欄 C に入る語として正しいものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐ 安達泰盛           ㋑ 平頼綱               ㋒ 三浦泰村           ㋓ 和田義盛
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(14) 下線部eについて述べた文として誤っているものを,下記の㋐~㋓から選びなさい。
㋐ 元寇後の恩賞が不十分であったため,多くの御家人は経済的に困窮していった。
㋑ 北条氏の嫡流である得宗の権威のもと,内管領の権力が強まった。
㋒ 全国の守護のうち半分以上が,北条氏一門で占められるようになった。
㋓ 悪党と呼ばれる没落御家人が鎌倉周辺で増え,やがて全国へと広がった。
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