慶応義塾大学法学部の日本史(2021年2月本試験)を分析しよう!
慶応法学部の日本史は、20年以上前から大量の語群から空欄補充させるいわゆる穴埋め問題が中心の小問数が合計50個による本試験が続いていました。語群から選ぶ穴埋め問題なら、得意なので対策もし易そうで簡単じゃんと思ったら「痛い目」に合うのが「法学部の日本史」です。大問ごとに空欄が7個前後しかないのに語群は多い時には60個程度あります。そして、やや難〜難レベルの大問では、語群のうち「4分の1」以上が一般の模試では問われることがほとんどない詳細な歴史用語が並んでいたりすることがしばしばです。
よって、従来はセンター試験レベルの基礎力が定着した時代や分野(テーマ)から順次、「慶応の法学部」ならばどのような用語が出題されるのかを効率的に伝授することで「ライバルに差をつけて」得点源として行く戦略を吉田塾ではとっていました。
しかし、4・5年前からこのような対策のみでは対処しづらい「正文誤文判定問題」や「年代整序問題」、本格的な「未見史料の読み取り」が必須となる大問などが年を追うごとに増加中です。これらの問題(設問)に対応できる対策も行わなければならないので今まで以上に時間をかけ、腰を据えた法学部対策が必要となって来ています。
2021年2月の本試験問題と20年2月の本試験問題を比較しよう!
2021年2月 大問4題(←20年4題)
小問数50個(←20年50個)
内、語句選択問題が29問(←34問)
正文誤文判定問題が16個(←14個)、
年代整序問題が5個(←2個)となっている。
☆それでは、今ここで近年の法学部の出題傾向を把握する(実感する)のに最適な過去問を3題用意(解答付き)しました!
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」、「百聞は一見に如かず」です。
履修範囲の部分だけでも良いので実際に解いてみよう!
次の本文を読み,空欄 (27) ¦ (28) から (37) ¦ (38) に入る最も適切な語句を語群より選び,その番号を解答用紙の所定の欄にマークしなさい。また,下線部(ア)から(キ)に関連した設問1から7に答えなさい。
東アジアの伝統的な国際秩序は,中国を中心とした冊封体制のもとにあったといわれてきた。ところが,古代から近世に至る日本・中国・朝鮮半島諸国の関係を俯瞰すると,異なる歴史像がみえてくる。
『漢書』地理志によれば,前漢時代,倭人は楽浪郡に使者を定期的に派遣していた。『後漢書』東夷伝や「魏志」倭人伝における記述からも,倭の王たちが中国皇帝に使者を遣わし貢物を捧げることによって,称号や金印などを授けられていたことがわかる。5世紀から6世紀にかけて,倭の五王たちも再三にわたり中国に朝貢した。478年,高句麗との戦いに際して中国南朝の宋に支援を要請した倭王武は, (27) ¦ (28) の称号を与えられている。また,武烈から欽明に至る5代の天皇の下で大連を務めた (29) ¦ (30) が,百済からの求めに応じ加耶西部の任那四県を割譲したことが遠因となって,540年に失脚するなど,その背景には朝鮮半島諸国との関係があったことがうかがわれる。
607年に派遣された遣隋使が持参した国書に「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す」と記されていたように,聖徳太子らによって国家体制の刷新が進められる頃になると,倭の五王の時代とは異なり,中国皇帝に臣従しない姿勢も示されている。当時倭国には,自らを周辺諸国よりも優れた国であると位置付ける日本的な「中華思想」も生まれていた。『日本書紀』は, (31) ¦ (32) に対して高句麗・百済・新羅からの使者が服属を示す貢物を献上する儀式を行っていた際に蘇我入鹿の暗殺が起きたと伝えているが,この使者の存在や服属が事実だったかは疑わしい。
それでも,隋のあとに成立した唐には,その先進的な制度や文化を学ぶべく(ア)遣唐使が派遣され,それにともなって唐に渡った留学生や学問僧たちは,帰国後に律令国家としての日本を形成する上で大きな貢献をした。9世紀後半以降に,唐の国力が著しく衰退してくると,(イ)遣唐使の派遣は中止されることになった。それ以降,朝廷や鎌倉幕府は宋や元と国交を結ばない方針を貫いたものの,平氏政権は日宋貿易に力を入れ,その後も宋銭が数多く流通するなど経済的結び付きは維持された。蒙古襲来のあとでさえ,民間の交易や僧侶の往来が絶えることはなかった。
15世紀初頭にはあらためて中国との国交を樹立し,(ウ)日明貿易を始めたが,朝貢という形式を屈辱的だと考えた将軍 (33) ¦ (34) によって一時中止されるなどのトラブルも発生した。高麗を滅ぼし1392年に成立した朝鮮との間でも,(エ)15世紀から16世紀にかけて様々な摩擦が生じている。倭寇討伐のために朝鮮が対馬へ出兵したことは,幕府や朝廷に衝撃を与えた。この問題への対応として日本に派遣された宋希璟が,その際の見聞を書き残したのが,『 (35) ¦ (36) 』である。その一方で,倭寇は密貿易商として東アジア地域の交易の一翼も担っていた。鉄砲を伝えたとされるポルトガル人は,倭寇の頭目の一人である (37) ¦ (38) の船に乗って種子島に着いたものとみられる。
全国統一後に(オ)豊臣秀吉が朝鮮出兵を決行した理由については諸説あるが,一説には,明を征服して日本を中心とした国際秩序を構築することを目指していたといわれる。1592年には15万を上回る軍勢が送り込まれ,緒戦は破竹の勢いで朝鮮半島北部にまで攻め込んだが,やがて朝鮮側が態勢を立て直し反転攻勢に出るとともに,明から援軍が派遣されたこともあり戦局は膠着状態に陥った。その後,和平交渉が不調に終わったことを受けて,1597年には再度派兵がなされたが,1598年の秀吉の死にともない撤退を余儀なくされた。撤兵を経て,朝鮮との講和は成立したものの,明との講和は不調に終わり,その後も(カ)江戸時代を通じて(キ)清との国交が結ばれることはなかった。
[語群]
01.足利義昭
02.足利義詮
03.足利義輝
04.足利義持
05.安東大将軍
06.アントーニオ=ガルバン
07.王直
08.大伴金村
09.姜沆
10.肥富
11.皇極天皇
12.孝謙天皇
13.光明皇后
14.実悟記拾遺
15.持統天皇
16.尚豊
17.聖武天皇
18.親魏倭王
19.推古天皇
20.征夷大将軍
21.善隣国宝記
22.祖阿
23.蘇我稲目
24.蘇我馬子
25.日本遠征記
26.日本及日本人
27.日本国王
28.日本三代実録
29.物部尾輿
30.物部守屋
31.老松堂日本行録
〔設問1〕 下線部(ア)に関して,遣唐使についての次の(a)から(e)の各記述のうち,適切でないものの組み合わせを[01]から[10]より選び,その番号を解答欄 (39) ¦ (40) にマークしなさい。
(a) 白村江の戦いを経て,第一回遣唐使の派遣が実現した。
(b) 894年,菅原道真は遣唐大使に任命された。
(c) 大伴古麻呂は鑑真をともなって帰国した。
(d) 藤原仲麻呂は唐からの帰途で暴風雨に遭い,帰国を果たせなかった。
(e) 阿倍仲麻呂は唐からの帰途で暴風雨に遭い,帰国を果たせなかった。
[01] (a)と(b)
[02] (a)と(c)
[03] (a)と(d)
[04] (a)と(e)
[05] (b)と(c)
[06] (b)と(d)
[07] (b)と(e)
[08] (c)と(d)
[09] (c)と(e)
[10] (d)と(e)
〔設問2〕 下線部(イ)に関して,遣唐使派遣の開始から中止に至るまでの期間における出来事の順番として最も適切なものを[01]から[12]の中より選び,その番号を解答欄 (41) ¦ (42) にマークしなさい。
(a) 安史の乱が起こった。
(b) 大仏開眼供養会が行われた。
(c) 第一回遣渤海使が派遣された。
(d) 最澄・空海が渡唐した。
[01] (a) → (b) → (c) → (d) [02] (a) → (b) → (d) → (c)
[03] (a) → (d) → (c) → (b) [04] (b) → (a) → (d) → (c)
[05] (b) → (c) → (a) → (d) [06] (b) → (c) → (d) → (a)
[07] (c) → (b) → (a) → (d) [08] (c) → (d) → (a) → (b)
[09] (c) → (d) → (b) → (a) [10] (d) → (a) → (b) → (c)
[11] (d) → (a) → (c) → (b) [12] (d) → (c) → (a) → (b)
[07]
〔設問3〕 下線部(ウ)に関して,日本と明の関係についての次の[01]から[05]の文章のうち,適切でないものを選び,その番号を解答欄 (43) ¦ (44) にマークしなさい。
[01] 明は懐良親王を日本国王に冊封し,倭寇の鎮圧を求めた。
[02] 公式の貿易以外に,遣明船に同乗した商人たちによる取引も行われていた。
[03] 輸入された織物や書画が,北山文化や東山文化に大きな影響を与えた。
[04] 倭寇が寧波の乱を起こしたことにより,勘合貿易は断絶した。
[05] 大内氏は16世紀半ばの滅亡に至るまで勘合貿易を独占し,大きな利益を上げた。
〔設問4〕 下線部(エ)に関して,15世紀から16世紀にかけて日本と朝鮮の間で起こった出来事の順番として最も適切なものを[01]から[12]より選び,その番号を解答欄 (45) ¦ (46) にマークしなさい。
(a) 朝鮮の三浦に住む日本人居留民が反乱を起こした。
(b) 朝鮮は宗氏からの歳遣船を年間25隻に制限した。
(c) 朝鮮が倭寇の根拠地とみなした対馬を軍船およそ200隻で襲撃した。
(d) 朝鮮は宗氏からの歳遣船を年間50隻に制限した。
[01] (a) → (b) → (c) → (d) [02] (a) → (b) → (d) → (c)
[03] (a) → (d) → (c) → (b) [04] (b) → (a) → (d) → (c)
[05] (b) → (c) → (a) → (d) [06] (b) → (c) → (d) → (a)
[07] (c) → (b) → (a) → (d) [08] (c) → (d) → (a) → (b)
[09] (c) → (d) → (b) → (a) [10] (d) → (a) → (b) → (c)
[11] (d) → (a) → (c) → (b) [12] (d) → (c) → (a) → (b)
[08]
〔設問5〕 下線部(オ)に関して,豊臣秀吉による朝鮮出兵についての説明として最も適切な文の番号を[01]から[05]より選び,解答欄 (47) ¦ (48) にマークしなさい。
[01] 朝鮮と明への出兵に備えて,秀吉は筑前に名護屋城を築いた。
[02] 「てつはう」を擁した日本側の軍勢は,仁川から進撃して漢城を陥落させた。
[03] 文禄の役ののち,和平交渉のため明から楊方亨が来日し,秀吉を日本国王に封ずるとの国書をもたらした。
[04] 秀吉が講和条件とした,天皇を明の皇女と結婚させることや,朝鮮全土を割譲することが受け入れられなかったため,和平交渉は頓挫した。
[05] 李舜臣率いる朝鮮水軍の反撃により,日本軍の補給路は完全に途絶した。
〔設問6〕 下線部(カ)に関して,いわゆる鎖国についての説明として最も適切な文の番号を[01]から[05]より選び,解答欄 (49) ¦ (50) にマークしなさい。
[01] 北海道の和人地でアイヌとの交易を行っていた商場も廃止され,すべての貿易は長崎に集中された。
[02] オランダとの取引が続けられた背景としては,宗教的な理由に加え,江戸で幕府と直接の貿易を行っていたことが挙げられる。
[03] ポルトガル船の来航は島原の乱以前に禁止されていたが,ポルトガル人の子孫はその後も引き続き日本に住むことが許された。
[04] オランダ商館が長崎に移されたのち,中国船の来航も長崎に限られたため,中蘭両国とは商館を通じた貿易のみが行われた。
[05] 鎖国という言葉は,江戸幕府の対外政策に関するドイツ人の記述をもとにして,19世紀になって用いられた訳語である。
〔設問7〕 下線部(キ)に関して,江戸時代における中国との関係についての次の(a)から(e)の各記述のうち,適切でないものの組み合わせを[01]から[10]より選び,その番号を解答欄 (51) ¦ (52) にマークしなさい。
(a) 中国との国交は結ばれなかったが,貿易は維持された。
(b) 徳川家康は清との国交回復を図ったが実現に至らなかった。
(c) 山鹿素行は著書の中で,日本こそが「中華」であると主張した。
(d) 長崎ではオランダ商館移設に先がけて唐人屋敷が設けられた。
(e) 清は鄭成功らの勢力を削ぐため,日本への商船の渡航を一時期禁止した。
[01] (a)と(b)
[02] (a)と(c)
[03] (a)と(d)
[04] (a)と(e)
[05] (b)と(c)
[06] (b)と(d)
[07] (b)と(e)
[08] (c)と(d)
[09] (c)と(e)
[10] (d)と(e)
[史料X]
程なく大地震にて,御蔵の金,御 (53) ¦ (54) に入り,其金民間にひろごり(注1)民間に金多くなる故,人弥奢(いよいよおごり)て商人弥利を得,一人の身一軒の家にても,物入の品多くなり(中略)御城下のはしはしに家居の立続きたる事,又(ア)田舎の末々まで商人一面に行渡たる事,それがし覚へても専(もっぱら) (a) 已後の事也。
然ば(注2)(イ)当時金銀半分より内にへりて (b) の昔に返れども,世界の奢,風俗の常と成たる所は, (b) の時分とは遥に別也。(中略)
諸色(しょしき)の高直(こうじき)(注3)に成たるは,全く (a) の時に金銀に歩を入れて,金銀の位悪敷なる故に,高直に成たるにも非ず。又金銀の員数ふゑたる故に,高直に成たるにも非ず。元来旅宿の境界に制度なき故,世界の商人盛に成より事起て,種々の事を取まぜて,次第次第に物の直段高く成たる上に, (a) に金銀ふゑたるより,人の奢益々盛になり,田舎までも商人行渡り,諸色を用ゆる人ますます多くなる故,ますます高直に成たる也。
(注1) ひろがり,の意。
(注2) 「然るを」と記す稿本も存在する。
(注3) 値段が高いこと。「直」は値のこと。
[史料Y]
此封事(ふうじ)(注4)御覧の後仰下(おおせくだ)されし事,ふたゝび三たびののち,「所(もうす)レ申(ところ)そのことわりあり。されど,これ国家の大計也。よくよく御思惟(しい)有べし」と仰下されしに,やがて今の法皇(注5)の皇子秀の宮とか申す御事,親王宣旨あるべき由を申させ給ひたりけり。其後また,前代に皇女御釐降(りこう)の事をも仰定られき。これらの事ども,我此国に生れて,皇恩に報ひまゐらせし所の一事也。
(注4) 密封して直接君主に差し出す意見書のこと。
(注5) 東山天皇を指すと考えられる。ただし,東山天皇は[史料Y]が執筆された頃,既に崩御している。
[史料Z]
対馬侯は小国を領して,僅二万餘石の禄なるが,朝鮮の人参,其外諸の貨物(しろもの)を,甚(はなはだ)賤く買入れ,一国にて占(しめ)て,甚貴く売出す故に,二十万石の諸侯に比して猶餘裕(よゆう)あり。(中略)石州の津和野侯は,四万石餘の禄なるが, (c) を造(つくり)出して,是を占て売る故に,十五万石の禄に比す。(中略)薩摩は本より大国なれども,琉球の貨物を占て売出す故に,其富有(ふゆう)海内に勝れたり。中華の貨物も,琉球に伝て,薩摩に来り,薩摩より此方の諸国に流布すること多し。
[解説文]
[史料X]は,江戸時代, (55) ¦ (56) に仕えた経験を有する人物が記した文章の一節である。ここには,商品経済の発展や人口の急激な膨張により,巨大都市化が進む江戸の様子が描かれている。当時の江戸では,大名の屋敷をはじめ,旗本・御家人の屋敷が集中し,多くの武家が居住するとともに,町人地には町人が密集して暮らし, (57) ¦ (58) と呼ばれる,店舗を持たない零細行商人も登場した。
[史料Y]は,[史料X]にある下線部(イ)の出来事に深く関わった人物が記した文章の一節である。この人物は,将軍徳川家宣に行った講義をもとにした『 (59) ¦ (60) 』の著者としても知られる。それまで宮家は,桂(一時京極と改称),有栖川, (61) ¦ (62) の三家に限られており,天皇の子弟の多くは,出家して門跡寺院に入っていた。[史料Y]では,この史料を記した人物による封事を一つのきっかけに,徳川幕府が費用を献じ,新たに宮家が立てられたことが述べられている。のちに後桃園天皇が急死した際,この宮家を継ぐ (63) ¦ (64) 親王の子が天皇に即位した。
[史料Z]は,服部南郭らとともに,[史料X]を記した人物に学び, (65) ¦ (66) 学派に属する人物が記した文章の一節である。[史料Z]に記されるように,当時,対馬を介して朝鮮と,薩摩を通じて琉球と,それぞれ交易が進められた。対馬藩に仕えて外交を担当し,『交隣提醒』を執筆した人物は,[史料Y]を記した人物と同じく, (67) ¦ (68) のもとで学んだ経験を持つ。薩摩藩のある藩主は, (69) ¦ (70) 館を設立して学業の振興に尽力するとともに,隠居後も藩政に携わり,調所広郷を登用した。調所はその後,琉球貿易を通じて藩財政の再建を図った。
47(普請)
58(柳沢吉保)
49(棒手振)
37(読史余論)
46(伏見)
26(典仁)
16(古文辞)
05(木下順庵)
27(造士)
[語群]
01.飛鳥井
02.池田光政
03.伊藤仁斎
04.賀茂真淵
05.木下順庵
06.崎門
07.京
08.銀
09.九条
10.熊沢蕃山
11.群書類従
12.経世秘策
13.古義
14.古事記伝
15.近衛
16.古文辞
17.御用取次
18.寺社奉行
19.時習
20.漆器
21.車借
22.集成
23.修猷
24.城代
25.醤油
26.典仁
27.造士
28.代官
29.鷹司
30.谷時中
31.熾仁
32.土御門
33.恒貞
34.手代
35.徳川家継
36.徳川光圀
37.読史余論
38.十組問屋
39.直仁
40.中江藤樹
41.南
42.林鵞峰
43.林鳳岡
44.半紙
45.武家事紀
46.伏見
47.普請
48.保科正之
49.棒手振
50.本朝通鑑
51.前田綱紀
52.間部詮房
53.明徳
54.明倫
55.目見得
56.木綿
57.護良
58.柳沢吉保
59.陽明
〔設問1〕 [史料X]の下線部(ア)に関連して,この時代の農村にかかわる説明として適切でないものを次の[01]から[05]の中より選び,その番号を解答欄 (71) ¦ (72) にマークしなさい。
[01] 都市・町と村の区別は存在したが,商品経済の発展とともに,農村部でも商人が活動するようになり,村方でありながら町として機能する在郷町が形成された。
[02] 田植えや稲刈り,屋根葺などに際して,お互いの労働や暮らしを支える結・もやいと呼ばれる共同作業が行われ,秩序を乱す農民は村八分などの制裁を受けた。
[03] 本途物成は米納が原則で,その年の作柄を調べて年貢の率を決める検見(取)法と,豊凶にかかわりなく一定の期間は同じ課税を続ける定免法があった。
[04] 農作業の効率化をもたらした道具に,金網の上に稲などの穀類を流し穀粒の大きさを選別する千石簁や,杵の一端を足で踏んで穀粒から籾殻を取る踏車があった。
[05] 全国市場の確立にともない,村々も次第に商品流通に巻き込まれ,一般の百姓たちが桑・油菜・野菜・たばこなどを商品作物として生産し貨幣を得る機会が増えた。
〔設問2〕 [史料X]の空欄 (a) および (b) に入る語句の組み合わせとして最も適切なものを次の[01]から[09]の中より選び,その番号を解答欄 (73) ¦ (74) にマークしなさい。
[01] (a) 正徳-(b) 元禄
[02] (a) 天正-(b) 慶長
[03] (a) 享保-(b) 正徳
[04] (a) 天正-(b) 元文
[05] (a) 慶長-(b) 享保
[06] (a) 元文-(b) 正徳
[07] (a) 元禄-(b) 慶長
[08] (a) 享保-(b) 天正
[09] (a) 元禄-(b) 元文
[07]
〔設問3〕 [史料Z]の空欄 (c) は,石州の津和野の名産品 (75) ¦ (76) を指す。これは土佐や駿河でも量産された。空欄 (75) ¦ (76) に入る最も適切な語句を語群から選び,その番号を所定の欄にマークしなさい。
44
農業政策と農業技術の発展は作物の生産量に影響を与えるのみならず,農家・農村を起点とした社会形成を通じて,国家のありようにも大きく影響する。ここでは明治以降の農業に関連する事象を扱う。
初期の明治政府がとった農業政策は,欧米の進んだ農業技術の移植を通じて農業経営体の商業化・大規模化を発展させようとする,「大農論」に基づいたものであったといえる。(ア)明治6年に設置された内務省は明治14年に農商務省が設置されるまで勧農政策を所管し,その管轄下に様々な機関を開設して古来の日本農業からの脱却を図った。しかし,耕地が細分化されていて小農(中小自作農や小作人)が多かった日本で,欧米の農法を普及させるのは難しかった。
地租改正によって導入された地価算定方式が小農にとって過酷なものであったことからも,明治政府は積極的に小農を保護する方針ではなかったと考えられる。当初,地価は土地売買の実勢価格を採用する案があったが,調査が困難だったため,(イ)『地方官心得書』に掲載された検査例を用いて,収穫高から地価を算出する案も試みられた。しかし,この案にも様々な問題点があり,高い地価を押し付けて税収を確保する「押付反米」方式に行き着いたことが,地租改正反対一揆を誘発する一因となった。
(ウ)民法典論争を経て明治31年に施行された民法(新民法)において,明治23年に公布されたものの施行が延期された民法(旧民法)で認められていた小作人の耕作権や小作料の減免請求権が制限されたこともあり,小作人の暮らしは一層厳しくなっていった。この当時の貧農の暮らしぶりについては,『アララギ』の創刊にも関与した (77) ¦ (78) の長編小説『土』で克明に描かれている。また,(エ)山本茂実のルポルタージュ作品には,現金収入を得るために出稼ぎに行く女工の苦難が描かれている。
このような状況下で,第二次山県内閣では地租増徴が決められた。しかし,そこに至る議論の中で,第一次伊藤内閣で欧化政策に反対して農商務大臣を辞職した経歴を持つ (79) ¦ (80) は中小自作農の保護を訴え,増徴に反対した。これに加え,明治中期からは農商務官僚によって中小自作農保護を掲げる「小農論」が議論され始め,(オ)農村を活性化しようとする政策が実行に移されることになった。しかし,地主の有利な立場は変わらず,(カ)大正時代以降,大規模な小作争議が頻発するようになった。
小作争議の一因として生産経費の増大も挙げることができる。明治後期以降は金肥の使用量の増加,その後の化学肥料の使用にともなって反収(単位面積あたりの収穫量)は増加していったが,肥料代の負担増加が小作人の生活を苦しめた。1913年にドイツでアンモニアを工業的に大量生産できる方法が開発されたことをきっかけに,これを原料とする化学肥料が世界的に普及し,農業の生産性は大幅に向上した。日本でも化学肥料を生産する企業が大きな利益を上げ,新興財閥へと成長していった。アンモニアに含まれる元素に由来する社名を持つ[企業A]を中心とした[財閥B]は,アンモニア生産に必要となる莫大な電力を賄うため, (81) ¦ (82) において赴戦江をはじめとする複数の河川に巨費を投じて水力発電所を建設した。そして近接する興南には大規模化学コンビナートを建設して,東洋一の生産量を誇ったが,敗戦によってこれら一切の施設を失うこととなった。
新興財閥は戦後にGHQの方針で解体されるが,それらの財閥に所属していた化学肥料関連企業は戦後日本史にも登場する。 (83) ¦ (84) が興した[財閥C]に所属していた[企業D]は,先述の[企業A]の後継企業とともに,高度経済成長期に有機水銀による深刻な環境汚染を引き起こし,公害訴訟の被告となった。また,[企業D]は (85) ¦ (86) 内閣の総辞職につながった疑獄事件でも知られている。この事件は化学肥料生産が傾斜生産方式で優遇されることになった際に, (87) ¦ (88) から多額の融資を引き出すために起こった贈収賄事件である。このような事情を考えると,食糧不足解消のための反収増加や復員と農地改革による耕地面積の拡大に対応するための農業政策がこの事件の背景にあったと捉えることもできよう。
26(長塚節)
21(谷干城)
24(朝鮮北部)
38(森矗昶)
03(芦田均)
34(復興金融公庫)
[語群]
01.鮎川義介
02.浅野総一郎
03.芦田均
04.伊藤左千夫
05.井上馨
06.大河内正敏
07.片山哲
08.ガリオア資金
09.吉林省
10.国木田独歩
11.国際通貨基金
12.黒龍江省
13.小林多喜二
14.幣原喜重郎
15.品川弥二郎
16.渋沢栄一
17.食糧管理特別会計
18.台湾
19.高浜虚子
20.田口卯吉
21.谷干城
22.田山花袋
23.朝鮮南部
24.朝鮮北部
25.徳田秋声
26.長塚節
27.中野友礼
28.日本開発銀行
29.日本銀行
30.乃木希典
31.野口遵
32.鳩山一郎
33.東久邇宮稔彦
34.復興金融公庫
35.古河市兵衛
36.奉天省
37.陸奥宗光
38.森矗昶
39.柳田国男
40.横浜正金銀行
41.吉田茂
〔設問1〕 下記の(a)から(d)の中より下線部(ア)で行われた事業の説明として適切なものを2つ選び,その組み合わせを[01]から[06]の中より選んで解答欄 (89) ¦ (90) にマークしなさい。
(a) 札幌農学校を開校してアメリカ式大規模農場制度の移植を図った。
(b) 駒場農学校を開校して外国人講師を招き,近代的農学教育を行った。
(c) 薩摩藩邸跡地に三田育種場を開いて輸入種苗や農具,家畜の研究と普及を図った。
(d) 西ヶ原に農事試験場を設立したのに続き,全国に支場を設けて技術改良を指導した。
[01] (a)と(b)
[02] (a)と(c)
[03] (a)と(d)
[04] (b)と(c)
[05] (b)と(d)
[06] (c)と(d)
[04]
〔設問2〕 下線部(イ)の検査例に基づく収益配分図を以下に示す。なお,第一則は自作地を,第二則は小作地を対象としたものである。この検査例と当時の情勢を踏まえつつ,下記の(a)から(d)の中より適切なものを2つ選び,その組み合わせを[01]から[06]の中より選んで解答欄 (91) ¦ (92) にマークしなさい。
(a) 西南戦争の戦費を賄うため,太政官札が大量に発行されてインフレが起こり,地租負担が相対的に軽くなったので,自作・小作を問わず農民はこの恩恵を受けた。
(b) 松方デフレの際には地租の負担が相対的に重くなったので,自作農の中には地租が払えず,小作人に転落するものが出た。
(c) 小作人の可処分所得(生活費に使える純益)は,その土地から得られる収穫物のわずか32%相当でしかない。
(d) 地価の決定後に反収が増えると収穫量に占める地租の比率は下がるが,小作料の比率は下がらない。
[01] (a)と(b)
[02] (a)と(c)
[03] (a)と(d)
[04] (b)と(c)
[05] (b)と(d)
[06] (c)と(d)
[05]
〔設問3〕 下線部(ウ)に関連する下記の(a)から(d)の中より適切なものを2つ選び,その組み合わせを[01]から[06]の中より選んで解答欄 (93) ¦ (94) にマークしなさい。
(a) 明治23年に公布された商法も,明治25年の第三議会で旧民法とともに施行延期が決議された。
(b) 領事裁判権撤廃のためには法典の編纂が必要であったため,小村寿太郎は外務大臣として民法の施行を急がせた。
(c) 民党は「政費節減・民力休養」を掲げて地租軽減を訴えたが,小作の権利強化につながる旧民法には反対する議員も多くいた。
(d) 穂積陳重は『法学新報』に「民法出デヽ忠孝亡ブ」を発表して,旧民法を批判した。
[01] (a)と(b)
[02] (a)と(c)
[03] (a)と(d)
[04] (b)と(c)
[05] (b)と(d)
[06] (c)と(d)
[02]
〔設問4〕 下線部(エ)に示した作品では,経済的に厳しい豪雪地帯の農村から,少女たちが徒歩で県境の峠を越えて,器械製糸の興隆によって日本で最大の生糸産地となっていた隣県へ女工として働きに出る様子が描かれている。この作品のタイトルにもなった峠はどこにあるか。作品内で女工の出発地がある県名と目的地である生糸生産が盛んだった県名の組み合わせを,[01]から[08]の中より選んで解答欄 (95) ¦ (96) にマークしなさい。なお,県名の組み合わせは[出発地 → 目的地]の形式で示されている。
[01] 新潟県 → 群馬県
[02] 新潟県 → 長野県
[03] 長野県 → 群馬県
[04] 長野県 → 山梨県
[05] 富山県 → 長野県
[06] 富山県 → 岐阜県
[07] 岐阜県 → 長野県
[08] 岐阜県 → 愛知県
[07]
〔設問5〕 下線部(オ)に関連する明治期の政策の説明として適切なものを下記の(a)から(d)の中より2つ選び,その組み合わせを[01]から[06]の中より選んで解答欄 (97) ¦ (98) にマークしなさい。
(a) 産業組合法に基づく産業組合は農村の信用事業・経済事業の強化を図った。
(b) 農会法に基づく農会は政府からの補助金を受け,農業の改良・発達と農民の福利厚生を目指した。
(c) 農商務省は地方改良運動を主導し,報徳思想に基づいて地方産業の振興を積極的に進め,財政基盤の立て直しを目指した。
(d) 政府は農山漁村経済更生運動を開始し,産業組合の拡充などを通じて農民を結束させ,自力更生を図らせた。
[01] (a)と(b)
[02] (a)と(c)
[03] (a)と(d)
[04] (b)と(c)
[05] (b)と(d)
[06] (c)と(d)
[01]
〔設問6〕 下記の表は下線部(カ)の小作争議の変化について,農林省の資料を基に作成したものである。示されている数値は1年あたりに換算したものを使用している。この表と当時の情勢を踏まえつつ,下記の(a)から(d)の中より適切なものを2つ選び,その組み合わせを[01]から[06]の中より選んで解答欄 (99) ¦ (100) にマークしなさい。なお,表中の要求Xおよび要求Yは問題作成の都合上あえて伏せてある。
(a) 大正期の小作争議は日本農民組合の結成と時を同じくして増加した。この際に多かった要求Xは多くの農民に共有され,団体交渉で取り扱いやすいものだったので,争議1件あたりの参加人数が多い。
(b) 期間後半は要求Xが減って要求Yが増加した。この過程で1件あたりの参加人数が,地主・小作とも激減していることから,要求Yは団体交渉の形式を取りながらも実質的には直接契約関係にある地主と小作の個人間の問題を巡って争われたと推定できる。
(c) 昭和9年以降の期間になると,要求Xを掲げた争議件数は大正期の3分の1程度になった。このことから大正期から昭和初期の争議の過程で要求Xが一定程度の成果を上げたと判断できる。
(d) 世界恐慌後の農村の疲弊に対して同情的な隊付の青年将校たちは,統制派を支持して国家改造運動と結びつき,二・二六事件を引き起こした。彼らは徴兵された農村出身兵を直接指揮していたので,要求Yを掲げなければならない農村の窮状をよく理解し,憤っていた。
[01] (a)と(b)
[02] (a)と(c)
[03] (a)と(d)
[04] (b)と(c)
[05] (b)と(d)
[06] (c)と(d)
[01]
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