☆慶応義塾大学経済学部の「歴史総合と世界史探究」
歴史総合に関する出題があり、大問Ⅰの問1、問6、問8、大問Ⅳが日本史と共通であった。
【1】
万国博覧会の歴史について述べた次の文章を読んで,問1~問6に答えなさい。解答は,設問で指定された場合を除いて,すべて〔解答用紙A(マークシート)〕の所定の解答欄にマークしなさい。
多くの産物を集めて人々に見せる催しである「博覧会」は古代から様々な形で行われていたが,近代に入ると産業技術の展示会としての博覧会がヨーロッパ諸国で盛んに行われるようになった。世界各国が参加する最初の万国博覧会(以下,万博と略)は1851年にイギリスのロンドンで開催された。会場のA水晶宮(クリスタルパレス)とそこに展示された製品は産業革命の成果を誇示するものであり,多くの来客があり成功を収めた。これに刺激を受けたフランスなど各国でも万博が開催されるようになった。
1862年の第2回ロンドン万博では日本からの正式の出品はなかったが,イギリス初代駐日公使を務めたオールコックは自身で集めた日本の品々を展示して人々の関心をひき,また当時ヨーロッパを訪問していた幕府使節団も万博を見学した。この使節団に加わっていた福澤諭吉は『西洋事情』で「博覧会」の賑わいを記している。1867年の第2回パリ万博はBナポレオン3世が統治するフランス第二帝政の成果を誇るものとして大々的に開催され,また日本が初めて正式に参加した万博としても知られる。
1873年には,Cオーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世の在位25年を記念してウィーンで万博が開かれた。またウィーン万博は明治政府が初めて参加した万博であった。1889年に開催された第4回パリ万博ではシンボルとしてエッフェル塔が建設されたが,同時にフランスの植民地であるアルジェリア,チュニジア,カンボジア,Dベトナム(アンナン,コーチシナ,トンキン)などのパビリオンも建設された。その中には,フランス領セネガルやEニューカレドニアなどから連れてきた先住民を柵で囲われた集落で生活させる「人間の展示」もあった。
その後も万博は開催されていくが,第一次世界大戦以降の国際関係の影響は万博にもおよんだ。1937年の第7回パリ万博ではドイツ館とソ連館が向きあって競いあうように建てられ,スペイン共和国館ではスペイン内戦におけるドイツ軍の空爆をあつかったピカソの「ゲルニカ」が展示された。日本でも万博への参加や開催計画は国内問題や国際情勢に影響された。
一方,F1970年に大阪で開催された万博では,多くの企業が個性的なパビリオンを出展して日本の高度経済成長を象徴するイベントとなるなど,万博はその国の経済力を示すものともなっている。このように万博を通じて,私たちは世界と日本の歴史を知ることができる。
問1(日本史と共通) 下線部Aに関連して,次の文章を読んで,文章中の空欄( ア )~( ウ )に入る人名を,下の1~9の中からそれぞれ選びなさい。アの解答は解答欄 (1) に,イの解答は解答欄 (2) に,ウの解答は解答欄 (3) に,その番号をマークしなさい。(重複使用不可)
水晶宮は,当時イギリスで大量に生産されるようになった鉄とガラスを使って建築された。鉄の大量生産は,コークス製鉄法が( ア )によって実用化されることで可能となった。水晶宮を会場とするロンドン万博には鉄道を利用して多くの観客が訪れたが,鉄道は鉄の大量生産に加え,( イ )が客車・貨車を牽引できる蒸気機関車を開発したことで急速に発達した。( ウ )が発明したミュール紡績機も蒸気機関を使って大量生産が可能なように改良されたが,それは同時に多くの単純労働者を生みだすことにもなった。
1.クロンプトン 2.ジョン=ケイ 3.スティーヴンソン
4.ダービー 5.ニューコメン 6.ハーグリーヴズ
7.フルトン 8.ホイットニー 9.ワット
問2 下線部Bに関連して,サルデーニャ王国はナポレオン3世統治下のフランスと接近するなどしてイタリア統一を進め,イタリア王国を成立させた。その後,イタリア王国と教皇庁とは対立するようになったが,その対立は20世紀前半に解消された。イタリア王国と教皇庁とはなぜ対立し,その対立はどのように解消されたか,対立が解消された際のイタリア王国の首相名に言及しつつ,〔解答用紙B〕の所定の欄の範囲内で説明しなさい。
問3 下線部Cに関連して,プロイセン=オーストリア戦争後にオーストリア=ハンガリー帝国が成立した経緯について,プロイセンとの関係に触れつつ,〔解答用紙B〕の所定の欄の範囲内で説明しなさい。
問4 下線部Dに関連して,フランスは19世紀半ば以降,ベトナム全土を支配下においていったが,そのことは19世紀後半にフランスとある国との戦争を引き起こした。その戦争へ至る経緯と結果について,〔解答用紙B〕の所定の欄の範囲内で説明しなさい。
問5(日本史と共通)
下線部Eに関連して,次の文章を読んで,文章中の下線部a および空欄( b ),( g ),( d )の場所として最も適切な位置を,下の地図中の1~9の中からそれぞれ選びなさい。a の解答は解答欄 (4) に,b の解答は解答欄 (5) に,g の解答は解答欄 (6) に,d の解答は解答欄 (7) に,その番号をマークしなさい。(重複使用不可)
a ニューカレドニア島を含む太平洋地域には,18世紀にイギリス,19世紀にドイツとフランスが進出した。またアメリカはアメリカ=スペイン戦争の結果フィリピンと( b )を獲得し,さらに( g )を併合した。日本も第一次世界大戦後,大戦中に占領したドイツ領南洋諸島の一部の委任統治を国際連盟から認められた。遅れて太平洋に進出したアメリカと日本は太平洋戦争勃発後,太平洋の島々で激しい戦闘を繰り広げた。特に( d )が陥落したことはそれまで戦争を遂行してきた日本の内閣の交代につながった。そして,アメリカ軍は( d )などから日本本土への空襲を本格的に開始した。
問6(日本史と共通)
下線部Fに関連して,次の第1図,第2図は,大阪万博が開催された年を含む,ある30年間の日本の消費者物価指数前年比変化率,アメリカの失業率,アメリカの貿易収支の推移をグラフ化したものである。図の横軸の1~3は,10年ごとの区分(2つの図で共通に設定)である。下のa~cの出来事が起きた時期を,図の1~3の中からそれぞれ選びなさい。ただし,a~cの出来事が起きた時期が1の時期より前の場合は0を,3の時期より後ろの場合は4を選びなさい。aの解答は解答欄 (8) に,bの解答は解答欄 (9) に,cの解答は解答欄 (10) に,その番号をマークしなさい。(重複使用不可)
a.ニューヨークで開催された先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)でドル高是正が合意された。
b.リーマン=ブラザーズが経営破綻して,世界的な金融危機が生じた。
c.6か国による先進国首脳会議がパリ近郊のランブイエで初めて開催された。
【解答1】
問1(日本史と共通) ア 4 イ 3 ウ 1
問2 イタリア王国は教皇領を併合して国家統一を実現したため,教皇庁と対立した。後にムッソリーニ首相が教皇庁とラテラノ条約を結び,ヴァチカン市国として教皇領の独立を認めて対立を解消した。
問3 プロイセンによるドイツ統一から除外されたオーストリアは,スラヴ系諸民族の自立要求を抑えるため,マジャール人に国家を認めて同君連合を形成した。
問4 清がベトナムへの宗主権を主張して派兵し,清仏戦争がおこった。その結果,清は天津条約でベトナムに対するフランスの保護権を承認した。
問5(日本史と共通) a 6 b 2 g 8 d 3
問6(日本史と共通) a.2 b.4 c.1
【4】(日本史と共通)
次の文章を読んで,以下の問14,問15に答えなさい。解答はすべて〔解答用紙B〕の所定の欄に記述しなさい。
慶應みらい君は,1918年に起きた米騒動について学び,そして,その直後に成立した原敬内閣において日本の食糧自給に関する諸政策の実施が決まったことを知りました。みらい君は,その頃の日本がどこから米を移入(*)または輸入しているのかに関心をもち,調べてみると,主な移入先が朝鮮で,主な輸入先が英領インドと仏領インドシナだと分かり,日本の前年の米穀生産量の推移と合わせて,第6図を作成してみました。さらに,英領インドと仏領インドシナの米輸出状況に関する資料aを見つけたので,みらい君は,この図と資料から何が読みとれるのか考えてみることにしました。皆さんも一緒に考えてみましょう。みらい君は,慶應義塾大学経済学部に入学したら,先行研究をもっと読み,日本内外の史料やデータを集め,統計的手法も学んで,この問題についてさらに深く考えてみたいとワクワクしています。
(*)移出・移入は国内におけるモノの移動に対して使用する語であり,外国貿易における輸出・輸入と区別される。
資料a (必要に応じて表現を改めた)
サイゴン米は従来その輸出を禁止し又は制限したることなかりしが,大正7-8(1918-19)年の米作十分なる豊収を見るあたわざりし時にあたり,世界的糧食不足による各地よりの需要増加し,輸出を自然に放任せば域内における米価を騰貴せしむるのみならず,無制限なる輸出はついに一般住民の消費米を空乏せしむる恐れあり。(中略)仏領インドシナ総督は(中略)大正8(1919)年2月以降毎月6万トンの米穀(白米および籾(もみ))に対し特許主義により輸出を許可し(中略)たり。(中略)9月以降は絶対的米の輸出を禁止したり。(中略)
1918年(中略)7,8月の交約1ヶ月にわたる大干魃(かんばつ)によりインドにおける農作物の不作により国内の食糧品大払底を告ぐるにおよび,インド政庁は食糧管理に関する官制を発布し,一時米穀の輸出を絶対に禁止したりしが,その後再び(中略)輸出許可を与えたり後同年11月初旬以降は全然絶対に輸出を禁止せり。ビルマにおいてはインド,セイロンおよび海峡植民地に対しても月額を定め特許主義によりて輸出することをえたり。
〔資料出所〕農商務省『外米ニ關スル調査』大正9(1920)年3月。
問14 みらい君は,第6図に示された1910年から1919年までの時期の動きをみて,外国からの輸入量と日本の前年生産量との間に何らかの関係があると考えました。あなたは,みらい君が第6図からどのような関係を読みとったと考えますか。〔解答用紙B〕の所定の欄の範囲内で記述しなさい。
問15 みらい君は,第6図に示された1920年以降の動きをみて,資料aに記されている状況が1920年以降の日本の米移入・輸入量に影響を与えたのではないかと考えました。これについて,あなたは,みらい君が第6図と資料aからどのような影響を読みとったと考えますか。問14で読みとった関係に触れながら,〔解答用紙B〕の所定の欄の範囲内で記述しなさい。
【解答4】
問14 前年生産量の増減が,輸入量に反転して現れる傾向にあると読み取った。
問15 仏領インドシナや英領インドで不作による輸出制限がおこなわれて,従来のように米不足を輸入米で補えなくなったため,1920年以降は日本の植民地である朝鮮からの米移入量を増加させ,国内での食料の安定供給を目指すようになったと読み取った。
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