☆学習院大学では、2025年度入試から(「日本史探究」+「歴史総合」)型の試験方式となります。日本史だけでなく「近代分野の世界史」の知識が問われるため、効率的な対策が必要となります。
吉田塾では、「日本史探究」をベースに効率的に「歴史総合」分野をカバーする対策法を受験生に伝授しています。
学習院大学の文学部の日本史は、
①例年、大問5個(各20点・100点満点)出題
②大問1、大問2、大問3は空所補充問題(選択式)であるので一見、対策しやすいように思えるのだが、中には詳細な家系図などを正確に把握していないと正しい語句を選べないような受験生が苦戦しそうな大問も散見される。
問題例(2008年2月10日)
次の文章を読み,〔 〕内で適当と判断する語句を選び,その符号を解答欄にマークしなさい。
1180年に源頼朝が挙兵したとき,以仁王の令旨がその大義名分とされた。以仁王は(1)〔(イ) 安徳 (ロ) 崇徳 (ハ) 鳥羽 (ニ) 高倉 (ホ) 後白河〕上皇の皇子で,親王宣下こそ受けていなかったものの,皇位継承候補者として充分な資格があった。莫大な領地を保有していた(2)〔(イ) 八条院 (ロ) 待賢門院 (ハ) 勧学院 (ニ) 建春門院 (ホ) 建礼門院〕の養子(猶子)になっていたから,軍事的・経済的にこれを援助する勢力も全国に存在した。ちなみに,(2)の保有した200カ所以上に及ぶ膨大な荘園群はのち大覚寺統の中核所領群になる。
以仁王は平清盛によって父上皇が幽閉されたことを非難して挙兵したのだが,鎌倉幕府の関係者が編纂した史書(3)〔(イ) 『源氏物語』 (ロ) 『太平記』 (ハ) 『増鏡』 (ニ) 『吾妻鏡』 (ホ) 『大鏡』〕に記録されている令旨の文では,父上皇の幽閉事件から間もなく即位した(4)〔(イ) 安徳 (ロ) 後白河 (ハ) 後鳥羽 (ニ) 高倉 (ホ) 崇徳〕天皇に替わって自ら皇位につく意思が述べられている。頼朝の挙兵は,皇位継承問題とも絡んでいたわけである。
幽閉されていた(1)上皇と以仁王や頼朝らの挙兵との関係は確実な史料ではわからない。ただし,平氏が都落ちをするより前に,頼朝の申し入れをもとにして(1)上皇が平氏に頼朝との和睦を斡旋しようと試みた事実がある。また,当時は養和の大飢饉のさなかであったため,1183年に東海道・東山道諸国の年貢納入責任を頼朝に委ねる(5)〔(イ) 治承 (ロ) 寿永 (ハ) 養和 (ニ) 文治 (ホ) 元暦〕二年の宣旨が出されている。これは頼朝の派遣した範頼・義経が京都を占領するよりも以前のことである。これらの事実からみて,少なくとも,(1)上皇が比較的早くから頼朝と交渉をもっていたことは間違いないとみられる。
1185年に源義経らが挙兵する事件があって,頼朝と(1)上皇との間に初めて本格的な軋轢が生じ,頼朝の申し入れで朝廷政治体制の改組が行われた。頼朝と親しい(6)〔(イ) 一条能保 (ロ) 一条実雅 (ハ) 一条兼良 (ニ) 九条兼実 (ホ) 九条道家〕が内覧,ついで摂政に据えられるとともに,(7)〔(イ) 評定衆 (ロ) 雑訴決断所 (ハ) 文殿 (ニ) 問注所 (ホ) 議奏公卿〕をおいて(1)上皇の独裁を抑えようとしたという。もっとも,(7)のメンバーは大部分が以前から(1)上皇の側近にいた人々だから,上皇にとっては痛くもかゆくもない性質のものだった。(6)の日記(8)〔(イ) 『小右記』 (ロ) 『御堂関白記』 (ハ) 『中右記』 (ニ) 『玉蘂』 (ホ) 『玉葉』〕をみる限り,これ以前に(6)が頼朝と特別に親しかったという事情も確認できない。
頼朝の申し入れで生じた最も重要な変化は,(6)を中心として記録所が再興され,制度にのっとった公平・確実な裁判を行う努力が始まった点にある。記録所はもと1069年に(9)〔(イ) 白河 (ロ) 後白河 (ハ) 後三条 (ニ) 醍醐 (ホ) 鳥羽〕天皇によって荘園整理のために設置されたものだが,(6)を中心として再興されたときから,土地を巡る紛争を裁く裁判機関という性質が強まった。鎌倉後期には天皇親政のときに朝廷裁判の中心となる位置づけとなった。
義経挙兵事件のころの天皇は(10)〔(イ) 安徳 (ロ) 崇徳 (ハ) 後鳥羽 (ニ) 高倉 (ホ) 後白河〕天皇(のち上皇)だが,のち,鎌倉将軍(11)〔(イ) 頼家 (ロ) 実朝 (ハ) 頼経 (ニ) 頼嗣 (ホ) 実雅〕は(10)上皇の寵姫であった坊門信清の女子の姉妹を室に迎え,(10)上皇と義理の兄弟の関係になった。(11)が鶴岡八幡宮の別当(12)〔(イ) 公暁 (ロ) 公顕 (ハ) 公経 (ニ) 禅暁 (ホ) 禅秀〕によって暗殺されたのは,右大臣任官の報謝のため鶴岡八幡宮に参詣した時のことだが,在京していない人が大臣に任じられるのも,その行列に参加するため多くの公家衆が鎌倉にやってきたのも,それまでにはない異常なことであった。(10)上皇と(11)との深い関係の表れと言える。
(11)の暗殺後,北条政子が上洛して(10)上皇の皇子を将軍に迎える交渉が行われたが不調に終わり,上皇は幕府打倒の方向に傾斜した。北条政子は,兄弟である(13)〔(イ) 時宗 (ロ) 時頼 (ハ) 泰時 (ニ) 義時 (ホ) 経時〕と謀って(6)の曾孫(14)〔(イ) 頼家 (ロ) 実朝 (ハ) 頼経 (ニ) 頼嗣 (ホ) 実雅〕を鎌倉に迎え将軍にしようとした。このため,(13)追討を名目として引き起こされた承久の乱の際には(14)の実父である摂政(15)〔(イ) 一条能保 (ロ) 一条経嗣 (ハ) 一条兼良 (ニ) 九条道家 (ホ) 九条兼実〕が,踐祚したばかりの(16)〔(イ) 仲恭 (ロ) 順徳 (ハ) 土御門 (ニ) 後堀河 (ホ) 後鳥羽〕天皇の外戚であったにもかかわらず,京都で幽閉されている。逆に,承久の乱後の京都と鎌倉との関係は,鎌倉の(14)と朝廷の実権を握る(15)との関係をなかだちとして再構築されることになった。(15)は生母が源頼朝の姪であったから幕府に対しても権威があり,以後しばらくは(15)とその子孫や婿にあたる人が代わる代わる摂関の地位を占めた。
鎌倉にいた(14)とその子は,(13)の子孫たちに支えられたが,北条氏の勢力伸長に反発する勢力や(13)に始まる嫡流家に反発する北条氏内部の勢力が形成されると,これらが(14)と結びつく動きが強まった。このため,1246年に(17)〔(イ) 平頼綱 (ロ) 北条時頼 (ハ) 安達泰盛 (ニ) 長崎高資 (ホ) 北条高時〕が実権を握ると(14)は京都に送還され,翌年には(14)の与党であった(18)〔(イ) 畠山重忠 (ロ) 和田義盛 (ハ) 安達泰盛 (ニ) 三浦義村 (ホ) 三浦泰村〕が挑発されて滅ぼされた。まもなく(14)の子も京都に送り返されたから,幕府と朝廷とが(15)をなかだちとして結びつく構図は消滅してしまった。
(17)は摂関家を抜きにして上皇との結びつきを強める方針をとり,1252年に(19)〔(イ) 後深草 (ロ) 後嵯峨 (ハ) 亀山 (ニ) 後二条 (ホ) 伏見〕上皇の皇子宗尊親王を鎌倉に迎えて将軍にした。朝廷でもこの前後から(19)上皇が中心になって裁判制度の整備が進められるようになる。これより先,(15)は記録所を整備するとともに合議によって訴訟を裁く体制の強化に努めていた。(19)上皇はこの流れを引き継いで,上皇の御所で合議により裁判を行う院評定衆などの仕組みを制度化することに努めた。この背景には,1249年の(20)〔(イ) 貞永式目の制定 (ロ) 評定衆の設置 (ハ) 引付衆の設置 (ニ) 永仁の徳政令の発令 (ホ) 連署の設置〕などにみてとれる,(17)を中心として推進された幕府側での訴訟制度の整備があった。鎌倉と京都との間で裁判の管轄区分をはっきりさせ,幕府と朝廷とが協調しながらさまざまの紛争に対処してゆかなければならなくなっていた。朝廷側でも裁判制度を整える必要があったわけだ。記録所や院評定衆など,鎌倉後期に整備された朝廷の訴訟制度は,建武政権が出現するうえでの前提となる。朝廷独自の努力もさることながら,これらは幕府との関係のなかで整備されたという面を強くもっていることにも注意しなければならない。
解答
(1)㋭ (2)㋑ (3)㋥ (4)㋑ (5)㋺
(6)㋥ (7)㋭ (8)㋭ (9)㋩ (10)㋩
(11)㋺ (12)㋑ (13)㋥ (14)㋩ (15)㋥
(16)㋑ (17)㋺ (18)㋭
③大問4が記述式の問題となっていて、一般の受験生にとってはハイレベルな用語を書かせる場合が散見されます。
問題例(2023年2月9日)
次の文章を読み,(1)~(10)の空欄および下線部について,下記の設問に答えなさい。〔解答用紙記述〕
江戸幕府にはさまざまな役所や役職(1)があったが,とくに重要な役所のひとつに,幕府財政の運営や幕領の年貢徴収などを司った勘定所がある。勘定所の長である勘定奉行は,町奉行および (2) とともに,いわゆる三奉行を構成し,役職をまたがる事項やとくに重大な問題について,評定所で合議を行った。勘定奉行は郡代や代官など,多くの役人を統括した。
第8代将軍徳川吉宗(3)が君臨した享保改革期に,勘定所機構の改編と人員増大などが行われた。18世紀以降,財政問題が幕政の中心的な課題となっており,そのような流れの中で,勘定所はより重要な役割を果たすようになっていった。
家柄などが重視されがちな江戸時代において,御家人身分など比較的低い身分から長である勘定奉行まで昇りつめた者が一定数いた,という点に勘定所の特徴がある。比較的実力主義の役所であったと評価される所以である。そのためかはわからないが,勘定奉行をはじめとした勘定所の役職を勤めた経験がある人物には,比較的著名な者が多い。以下,具体的に何人か見ていこう。
第5代将軍徳川綱吉の時代(4)の勘定奉行としては,荻原重秀がいる。彼は勘定吟味役の際に,幕府財政の収入増加のため,より質の劣る貨幣への改鋳を上申した。この貨幣改鋳によって,幕府財政の収入は増加したが,物価の高騰が起きた。この物価高騰と1707年に起きた富士山大噴火(5)は,人々の生活を苦しめた。荻原は,1696年に勘定奉行となっている。
その後,享保改革で勘定所の機構改編などが行われたのは前述したとおりであるが,改革期後半には,「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされる (6) が勘定奉行を勤めている。
18世紀末には,ロシア皇帝 (7) の命を受けて,ラクスマンが来航するが,幕府は「宣諭使」として石川忠房らを蝦夷地に派遣し,交渉を行わせた。この石川も後に勘定奉行となっている。なお,石川は勘定奉行在職中に兼任していた道中奉行としても,駅制改革を行うなどの活躍を見せている。
時代劇のキャラクターの中で,もっとも有名といっても過言でないのが,「遠山の金さん」であろう。その「遠山の金さん」のモデルとなった遠山景元(8)やその父親である遠山景晋も勘定奉行経験者である。景晋はロシア使節レザノフへの対応や蝦夷地調査,朝鮮通信使の易地聘礼(えきちへいれい)関係業務などで知られる人物で,目付や長崎奉行などを歴任した後,勘定奉行に就任した。景元は作事奉行や勘定奉行を勤めた後,町奉行に就任することになる。
幕末期の勘定奉行経験者でいえば,日露和親条約(9)調印やいわゆる条約勅許問題などで種々の活躍を見せた川路聖謨がいる。また,1860年に,日米修好通商条約の批准書交換のため,米国へ派遣された使節の随行艦 (10) 丸に乗船した木村喜毅も,最幕末期に勘定奉行を勤めた一人である。なお, (10) 丸は,1857年にオランダから購入された船である。
〔設問〕
(1) 下線部(1)に関し,江戸幕府の役職のひとつに大老があった。幕末に大老に就任した井伊直弼は,勅許を得られないまま,日米修好通商条約調印を断行した。この条約の第三条には「 (1) ,箱館港の外,次にいふ所の場所を左の期限より開くべし。神奈川(後略)」とある。 (1) にあてはまる地名を答えなさい。
(2) (2) にあてはまる役職を答えなさい。
(3) 下線部(3)に関し,徳川吉宗に献ぜられた『政談』を記した人物の人名を答えなさい。
(4) 下線部(4)に関し,徳川綱吉の時代に側用人となり,後に甲府15万石を領するに至った人物の人名を答えなさい。
(5) 下線部(5)に関し,江戸時代においては,種々の火山が噴火し,そのたびに大きな被害をもたらした。1782年の冷害から始まったとされる (5) の飢饉では,翌1783年に浅間山で大噴火が起き,事態を深刻化させた。 (5) にあてはまる元号を答えなさい。
(6) (6) にあてはまる人名を答えなさい。
(7) (7) にあてはまる人名を答えなさい。なお,ラクスマンが連れていた日本人漂流民の中に大黒屋光太夫がいたが,彼はロシアで, (7) に謁見している。
(8) 下線部(8)に関し,遠山景元は町奉行在職時,いわゆる天保の改革を推し進めていた水野忠邦と意見が対立することがあった。天保の改革では,庶民の風俗統制が行われ,『春色梅児誉美』の著者も処罰された。この人情本作家の人名を答えなさい。
(9) 下線部(9)に関し,この条約では,日露の国境について, (9) 島以南は日本,得撫島以北はロシア領とすること,また,樺太に関しては,国境を決めず,雑居地とすることなどが定められた。 (9) に入る島の名称を漢字で答えなさい。
(10) (10) にあてはまる船の名称を答えなさい。
解答
(1)下田 (2)寺社奉行 (3)荻生徂徠
(4)柳沢吉保 (5)天明 (6)神尾春央
(7)エカチェリーナ2世 (8)為永春水 (9)択捉(島)
(10)咸臨(丸)
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